そこが知りたかった!池田市、豊中市、箕面市、大阪北部の葬儀の実態。豊中市の葬儀会社・加納の上村社長を招き講演会開催

 

池田市、豊中市、箕面市の葬儀事情。株式会社加納の上村社長講演

 

2012年7月23日、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の豊島南組は信行寺(豊中市立花町、Tel.06-6841-3100)を会場に、葬儀に関する僧侶研修会を開催しました。池田市、豊中市、箕面市の葬祭事情を僧侶の側からだけでなく、葬祭企業のベテラン葬祭ディレクターに講師になっていただくことで、互いに実情を理解し合おうという試みでした。

信行寺で開催された僧侶研修会の様子
写真:信行寺で開催された僧侶研修会の様子。中央のスーツ姿の男性が株式会社加納の上村学社長。左のスーツ姿の男性が上村明さん。

仏教はいのちを知る手掛かり。学ぶことでいのちの本当の姿に出会います。葬儀は、ある人にとっては悲しみ、感謝、別の人にとっては怒りと、いろんな感情が溢れてきます。それとともに、残された人はすべからく「自分に与えられたもの」の前にただ首を垂れるしかない、生きているという事実を突き付けられる場でもあります。大切ないのちのつながりを知っていく場としても、葬儀はとても重いものです。

『葬儀に関わって』と題した講演会で、豊中市役所すぐ傍で葬祭式場加納会館(本館:大阪府豊中市中桜塚2-12-2 フリーダイヤル0120-096-940)を運営されている株式会社加納http://www.kk-kanou.jp/の上村学社長にご講演をいただき、その後、末本弘然正福寺住職と対談をしました。

 

仕事のモットー

 

私たちの目標、モットー、スローガンですが、それは「お棺の中の仏さまからも感謝される仕事をする」ということです。

こういう気持ちで毎日仕事をさせていただいています。お葬式をしましたら、お施主さんからお金をいただくわけです。大半は「有り難うございます」という感謝の言葉とともに頂きます。中には、何かの行き違いがあったのか、辛辣なご批判をいただいたりすることもあります。ほとんどの方は有り難うとおっしゃいます。

考えてみれば結構な仕事だと思います。感謝されてお金をいただくわけですから。弊社だけでなく、葬祭業全体に言えることですが、お金をいただく時に有り難うと言われる。

でも、私のモットーは、モノ言わぬ仏さま(故人)にも有り難うと言ってもらえる位、良い仕事をしよう――です。そういう意味で、「お棺の中の仏さまからも感謝される仕事をする」という目標を掲げています。毎朝の朝礼でそんな話しをして、現場に行くわけです。

株式会社加納の上村学社長。別日に撮影した写真。
株式会社加納の上村学社長。別日に撮影した写真

ちょっとここで質問がございます。

いわゆるあの世ということがあると思われる方は、何人おられますか?

いや、やはり今日は浄土真宗のお寺さんなので、当たり前ですが手は挙がらない。私はあちらこちらに講演に行くと同じ質問をします。そうすると、だいたい、4割程度の方が「あの世」を信じておられます。他の方は信じていない、あるいは考えていないという状況です。

宗教を信じている方ですが、日本人の宗教心は低い。アメリカはキリスト教だが80%。中国でも半数程度。日本人はほとんど関係ない話しになっています。

 

我々は、そんな環境でお葬式をしています。

だからと言って、お寺もなにもない条件でお葬式をするというのもどうかと思います。

皆さんのお手元にお配りしましたが、今流行りというか、「直葬(ちょくそう・じきそう)」という方法があります。病院などで亡くなられて、そのままお葬式をせずに、火葬場に行き、お骨にする。お骨になったらその後どうなさるのかは、こういった統計にはなっていませんが、そういう直葬の割合が、平成元年から毎年見て行くと、3%~4%程度だったのが、8%等になっています。徐々に増えてきています。これは大阪の話です。東京に行きますと既に20%を超えています。葬祭業者によっては、直葬が30%を超えている会社もあります。それだけ宗教心がないのか、東京あたりだと地方出身者が多いので、とりあえずお骨にして里に持って帰るという人もおられるでしょう。しかし、数字としてはこんな数字が上がってきています。これは我々の葬祭業界でも問題になっています。はっきり言いますと、会社ですから、直葬ばかりになると社員を養えなくなります。

まずとにかく、こういう社会的背景は数字で明らかになっています。

 

人生最大のストレスを抱えた遺族に寄り添う

 

その次ですが、遺族に寄り添うこと。寄り添うというのはどういう解釈をするべきか、難しいモノがあります。

この仕事の主役はご遺体であり、ご遺族であり、お寺であり、会葬の方々。

この4つが主役であり、どれが欠けてもいけません。やはりご遺体に対しては丁寧に尊厳を持って寄り添う、扱う。

ご遺族にも同じことです。

お寺さんにしても、お経を上げてもらったらそれで良いのかと言うとそんなことはない。それから会葬者。この4つの立場の方々があってのお葬式です。そして、遺族にとっては、人生最大のストレスを抱えているわけです。身内の方が亡くなったのですから。そういう方と関わるわけですから、言葉一つをとっても丁寧にしないといけないわけです。

 

家族葬だと言われたのですが、お参りできないでしょうか?

 

葬儀の実態といいますと、その一端として直葬の割合をお示ししましたが、私どもに葬儀に依頼がある場合、99%が電話です。

会社に電話がかかってきて、「どこどこの病院で誰が亡くなった」という話ですが、最近は続けて「ついては、家族葬をお願いします」という言葉が出てきます。家族葬という言葉が開口一番に出てきます。

家族葬だということでご遺族と打ち合わせのためにお話しします。

そこで、こちらから「ところで家族葬って一体、何ですか?」とお尋ねすることがあります。

そうすると、ご遺族からは答えが出て来ないのです。

家族葬というのは言葉だけが独り歩きしているというのが、現状なんです。よくよく聞いてみましたら、「家族葬だと言っておけば、そんなに費用をかけなくても済むのではないかと思った。お寺さんも1人で良くて、2人も3人も要らないのではないかと思った」ということをおっしゃる。それはそれで、ご予算があることなのでこちらは何も言えませんが。

この業界の中では、家族葬というと、家族、親戚、それから親しかった友人関係、その程度までが関わる。これ以上に町内会、取引先、勤務先などが関係してくると家族葬とは呼ばない。

でも、実は、家族葬だと言いながら、ご遺族はご自身で一生懸命に、あちらこちらに連絡をされます。

子どもさんがおられたら会社の方に電話をしていたりする。丁寧な方は「家族葬なので会葬は結構です」とおっしゃったりする。

でもその時に「家族葬をします」と言いながら、会場、日時などをおっしゃいます。そうすると、聞いた側は困りますね。会葬させてもらって良いのかがわからない。だから、弊社に電話がかかってきます。「家族葬だと聞いているのだが、お参りさせてもらっても良いものかどうか」という相談の電話です。これがしょっちゅうあります。

だから家族葬だと言われても、そもそもその概念は共通認識の形がないので、こんな混乱が起きています。

 

派手な葬儀は望みません

 

しかし、まあ、家族葬だと言われているのですから、もともとそんなに派手な葬儀は望んでおられないということは分かります。

その一方、ひとりの人が生きていたのですからいろんな関わりがあります。

会社関係、趣味の関係、近所の関係、そういう関係を全く無視して葬儀を執り行うというのは、これは問題があるのではないか。私たちはご遺族に、率直にそんな話しをします。

ただ残念なことに、私たちがそういうことをお話しすると「加納さん、また儲けようと思ってそんなことを言う」というふうにとられてしまう。これが悲しい現実です。

葬祭業者は業者ですから、そんな行き違いが生まれる。こんなことは、お寺から言ってほしいと思います。

 

寂しいお葬式。せめて会葬しやすく

 

現状は家族葬が大半。しかし実際は本当に家族と親しい友人だけの小さなお葬式は、そんなに言うほどはありません。反対に、昔のように何百人も来られるようなお葬式も、今はほとんどありません。多くて100人くらい。平均しますと会葬者は20~30人くらいです。

だから私たちからすると、「寂しいお葬式」が増えました。

私自身が10数年前、女房を亡くしました。その時に皆さんにお参りをしていただきました。できるだけ沢山の方に連絡をしてくれるように頼みましたし、実際に多くの方にお参りいただきました。やはり、遺族にとっても、会葬者が多いのはひとつの「慰め」になります。まったくどこにも知らせずにお葬式を済ませるのは問題があるんじゃないかと、思います。

私たちからそんな話しはします。中には、「なるほど、それはそうだ」と思ってくださるご遺族もおられます。

上村学社長は「香典辞退問題」にも言及。
上村学社長は「香典辞退問題」にも言及。

ついでに言っておきますが「香典の辞退」も、半分を超えています。

香典を受け取らない。でも、香典って、日本社会が続いている象徴でもあります。

昔からの良い習慣ですよ。相互扶助。

これも試しに香典を受け取らない理由をお聞きしますと、「後からお返しするのが大変だ」という理由をおっしゃいます。

中には「うちは香典がなくったって、お葬式くらい出せますから」という、見栄と言いますか良い恰好をされる方もおられます。

 

ですから、私はこういう時もお話しをします。 「あなたのお父さん(仏さま)がお元気だった頃、いろんな所のお葬式に行かれる時は、きっと香典を持って行かれたと思いますよ。だからお父さんからの香典を受け取られていた方々は、今回、持ってこられますよ」と言う話です。でもこれもまた理解していただきにくい。中には、「香典がない?それはラッキーだ」と思う方も当然おられるでしょう。でもそれは、日本人の付き合いだと思うのです。香典さえ受け取れない社会、人間関係というのは寂しい社会ですよ。持って行ったのにそれを拒否されるのって、寂しい思いをさせる、疎外感を与えるのではないかと思います。

 

有縁の方々は会葬したいのですよ

 

家族葬についてもう少し申し上げます。

結構、あちらこちらに、遺族となった娘さん、息子さんが電話連絡をされています。そうすると、思わぬ人が会葬に来られるというケースがあります。そうすると、20人くらいだと思っていたのが50人、60人になったりします。

私たちは粗供養の用意が足りずに慌てるわけです。そういう現状があります。家族葬って、聞こえが良いので言葉だけが歩いていていますが、でも実際は誰もその実態を知らない。家族葬ではないお葬式を、もう一度何か示してもらいたい。私はそういう思いです。

 

葬祭ディレクター制度について

 

葬祭ディレクターという制度があります。1級、2級と別れています。

よく勘違いをされますが、この資格は厚生労働省がお墨付きを与えた資格ではありません。

厚生労働省は、葬祭ディレクター技能審査協会を認定しているわけです。その協会が主催しているのがディレクターの試験です。広い意味で言えばお役所が認定している資格なのだと言われることもありますが、実際はこのような状態です。

協会は平成8年に認定を受けました。今年は9月22日に試験があります。

全国8カ所の会場、札幌、仙台、東京、大宮、横浜、名古屋、京都、福岡。同じ形式、同じ時間でします。今年も2600人くらいが受験します。毎年この程度の人数です。資格を既にお持ちの方は25000人あまりになっています。
合格率は2級70%、1級60%。なかには50%をきる年次もあります。総じて60%程度が合格しています。私も資格創設の最初に受験し、1級を頂いています。私の会社でも12人、13人の社員が1級です。

ではもし、今、私が1級の試験を受けたらどうなるか。通らない可能性の方が高い。それぐらいレベルが上がっています。

筆記と実地がありますが実地は、以前は会場に幕を張るテスト、司会のテストなどがありました。今は、説明実演ということが注目されています。

これは遺族と受験生が1対1で話をします。質問を受けたらそれに対して適切な答えを出すということです。

受験者1人につき、試験官が2人対面でつき、そのやりとりを採点します。

全国2600人ですが、私は毎年京都会場で試験のお手伝いをしています。200人以上おられるわけです。大変な試験なんです。

受験料が1級53000円と安くはない。厚生労働省からは安くならないのかと言われるわけですが、会場の借り賃であるとか、諸経費がかさむ大掛かりな試験です。

合格者はそれぞれの会社の方針によって、名刺に書くとか看板にするとか、ということで役立てています。

 

全日本葬祭業協同組合連合会

 

全葬連について

また、私たちは全葬連(全日本葬祭業協同組合連合会)に加盟しています。互助会は全互協(全日本冠婚葬祭互助協会)という集まりがあります。その2つの団体で作ったのが葬祭ディレクター技能審査協会。国家資格とまではいきませんが受講生にしてみれば、大変な資格を受験しているということは実感されます。ただし、資格について、厚生労働省が認めた資格なのだという表記の間違いをする方もまだおられるのでご注意ください。
弊社からは今年2人受験しますが、彼らは半年かけて分厚い本を丸ごと勉強しています。

 

一般的な葬儀の進行について

 

遺体搬送から自宅での中陰壇設置までのプロセスについてですが、今の方はほとんど、病院、あるいは高齢者施設で亡くなるので、自宅で亡くなる方は1割あるかないかというところです。

私は44年に大学を卒業してこの業界に入りました。そのころは半数くらいは自宅で亡くなっていました。

今や施設、病院。亡くなった知らせを受けて病院では寝台車の用意をしてご希望のところまでお送りします。

以前は自宅に帰られた。でも今はあまりいない。どこに行くかと言うと、私のところの加納会館で言えば、会館内の安置所に向かう。それはちょっとおかしいなと思っています。

やはり、長いこと入院されてその果てに亡くなるのだから、亡くなった人は、いきなり葬儀場に行きたいと思っているのか?ということを考えると、そんなことを思っているはずがない。

やはりお家に帰りたいんだと思います。

会館に直接入りたいと明言される方以外は、「どうしたらよいか?」と相談されたら、やはり「たとえ文化住宅でも、アパートでも、1度お家に帰られたらどうですか」とお答えしています。私たちにとっては、2階、3階にご遺体を担ぎ上げるのは大変な作業です。

でも、ご本人がどこに帰りたいのかと言うと、家。だからそう申しあげています。

ところが「いや、自宅だと、近所の目にさわる。葬儀があると分かるので、会館に」という方や「自宅の中はひっくり返っているのでダメだ」という方もおられます。

加納会館も控室などありますが、それとは別に霊安室を最近設置しました。時代の要請で霊安室を設置しましたが、それは私たちが望んでいることではありません。

ご自宅に帰られたら、またご自宅から会館に移さないといけない。これは二度手間だと思ってしまいがちですが、仏さまがそうして欲しいと思われるだろうということで、そんな話しをします。

 

葬儀はお寺、遺族、火葬場のスケジュール調整によって実現する

 

搬送が終わりましたら、「葬儀会場はどうしましょう」とか「お寺さんはどこですか」とか、そんな打ち合わせがはじまります。

実は、豊中だけですが、火葬場は今、工事をしています。火葬の時間の予約は非常に厳しく、9時~17時までのなかで、11時から12時とか、昔はよくあった時間帯には予約できないのです。ですから、他の時間帯での火葬になってしまうのです。

そういう現状があり、お寺さんとのスケジュール調整が難しい。

この時間でなければだめだとは言わないですし、池田、箕面、吹田もありますから周辺の火葬場も使わせていただいて調節を試みる。だから、葬祭業者の都合だけで決まるわけではありません。そもそも、お寺さんに来ていただかないと始まらないですからね。

一番困るのは、土曜日、日曜日です。なぜかと言いますと、お寺さんは檀家さん宅にお参りに行かれますから。お葬式は、お寺さん、遺族、火葬場の3者のスケジュールが決まらないとできません。

ようやく日が決まると今度は、お通夜です。

お通夜は昔は夏でも冬でも19時頃でしたが、最近は18時が多いです。これはもう、ご遺族とお寺さんの都合で決まっています。業者は18時でも19時でも構わない。20時でも構わないのです。

さて、おつとめ頂いた後です。私たちの希望なのですが、5分でも10分でも構いませんので、ご法話を頂けませんでしょうか。

法話なさらないのもお寺さんのお考えでしょうから、私たちがとやかく言うものではありませんが、やはり、お通夜の晩は人も集まり、受け入れやすいタイミングになっています。中にはご遺体を会館に預けてご自分は家に帰るという人もいます。でも、たいていは、1人、2人は会館に残って、線香の番をされます。中には、渦巻型の線香で構わないからと帰る人もいるんです。

1本タイプの線香は40分くらいしか持ちません。一晩に何度も変えないといけません。だから渦巻きをとおっしゃるわけです。

明け方、お葬式があり火葬場に行くというのが、大阪での一般的な流れです。なかには、先に朝一番で火葬場に行き、お骨にして昼からお葬式をするという習慣のところも、全国区では珍しくありません。

私がこの業界に入った昭和44年当時は、火葬場という場所はお葬式が終わってから行くものだというのが習慣でした。私は昔、修行で九州にいました。九州は朝一番に火葬にする。お骨が上がったら、2時~3時でお葬式をする。お葬式をしたら、祭壇をそのまま置いて業者は帰る。初七日まで祭壇は置いたままです。そういう習慣のところもあります。今、九州でも大阪式と言いますか、葬儀後に火葬場に行くところが増えました。でも、東北や信州は火葬が先だという地域もあります。

 

癒されない心。七日ごとの法要が無くなりつつある

 

最近は、お骨を上げて帰ってきた時に初七日の法要も一緒にやって解散するのが主流です。
葬儀で集まった縁者が数日後に再び集まるのは難しいので、初七日は当日に済ませるという形になりましたが、これはご遺族の都合から生まれた話しです。

東京あたりは、お葬式が終わってから同じ場所で火葬場に行く前に初七日を済ませてしまう。都心から火葬場まで行くのに早くて1時間、1時間半ほどかかる。火葬場で待って帰って来るまで3時間、4時間かかります。そんな事情で、お葬式の後にそのまま初七日をなさる。

お葬式の後に続けて初七日の法要をなさるのは、合理的ではありますが、癒しとか、グリーフケアという観点から言いますと意味をなさないのではないでしょうか。

中には、お葬式の当日に満中陰の法要をなさる所もある。お寺さんにはおかしいのではないかと伝えたことはあります。しかし、ご遺族との間でそんな話しになったようです。

現在は、二七日、三七日の法要自体がないのでは? いかがですか?

初七日と満中陰はされるでしょうけれど。私は自分の体験で言えば、7日ごとの区切りはとても大事でした。

7日ごとに親族が集まり、お寺さんも来られて、法要をする。

そのたびに、家人が死んだのだという事実を受け入れて行く。

それが同時に、私自身に対しての癒しでもありました。これが49日という期間の意味ではないかと思います。

お葬式の当日に満中陰をなさるのは、東京という土地柄、しょうがないことだとは思いますが、いかがなものかということを思います。

お葬式、初七日、満中陰、そして1周忌、3回忌、7回忌、13回忌となると、私たちの業界には仕事として関与できないので統計はありませんが、実感としては、年が進むごとに実際におやりになるご家庭は少なくなるという印象があります。

 

お寺と遺族の間の意識の壁

 

お寺さんと遺族の間のギャップですね。私たちは、両者の中間地点に居ります。お寺さんのおっしゃることもわかる。ご遺族のおっしゃることもわかる。たまに、その間で右往左往します。

 

お寺の改善点。お布施は本来の意味で。

 

今回の講演にあたり、お寺の改善点について尋ねられたのですが、お布施は本来の意味で扱っていただきたいということを思います。

具体的にと言いますと、お葬式でお寺さんの人数が減ったということがありますね。

お葬式の簡略化ということがあるのですが、以前ですとお葬式でお寺さんが1人だけと言うのはあまり見なかった光景です。でも、今は1人。

確かに、何人も来ていただくとお布施の問題もあります。

でも、「あるところはある様に。無いところは無いなりに」するのがお布施の本来の姿ですから。

昔はお金ではなくお米だったり、ご自身の労働提供だったりしました。今はでも、お金があってもなくても現金で納めておられますね。

極端な例ですと、生活保護を受けておられた方のお葬式です。

20数万円程度の国から出るお金は、霊柩車の費用などに消えて、ここからお布施として使えるモノはありません。菩提寺がある人は、そこにお頼みすれば良いわけです。

我々は、そういった時にお布施はいくら包むべきかと聞かれても、「いや、その予算では出せないでしょう」とお答えして、私たちの方から、何も出せないのですがとお寺さんにお願いして、おつとめしていただいた経験もあります。

ですから、そういう方のお葬式から、数百万円を使われるお葬式もあります。

「同じお寺さんに来てもらって、なんでそこまでお布施の額が違うの?」と、実際これはよく言われます。

でも、それがお布施なので、「あるところはある様に。無いところは無いなりに」ということです。無いところは無いなりに出来る範囲でということです。

大半は、お寺との深い付き合いのある方はおられません。ですから、「相場」をどうしても知りたいというご遺族には、目安をお知らせすることはあります。

考え方なのですが、小さな祭壇のお葬式と、派手になさるお葬式は、小さなお葬式は小さいなりに、派手になさるところはお布施にもそれなりに包まれたら良いでしょうと思います。

私たちは、お布施に関わるのは実は怖い立場です。あんまり多く包むとご遺族の負担です。そして、正直な話し、少ないからと突き返してこられるお寺さんもある。大半は、何もおっしゃらずに受け取っておられます。

ですから「お寺の改善点は?」と聞かれますと、まず檀家さんのコミュニケーションをもっと取ってもらいたいのです。

私たちは、間に立つのはいくら立っても構いません。

でも、このお布施の問題など、私たちに聞いてこられるのは筋違いですし、答えるこちらも本当に心が苦しいのです。

昔は地域社会がきちんと成立していて、お布施のことなどもその地域社会の常識としておよその目安が存在していました。今はその社会がないので、私たちのような業者に聞いてこられる。この苦しさを、お寺さんにも分かっていただきたいと思います。

 

生活は時代とともに変化している

 

私の会社は、長い間この仕事をしていますので、お家によっては、3代前、4代前から出入りさせていただいているお家もあります。

実際に、お葬式をお手伝いする方の多くはリピーターです。最近はお寺さんのご縁がないので紹介してくれと言う方は少ない。20年ほど前は多かったのですが、当時にお手伝いした家庭で次のお葬式が出て、声をかけていただいています。

例えば、当時ご紹介したお寺で再度お願いしたいというご家族がほとんどです。一方で、当時、あのお寺さんはお布施が高かったという理由で、「今度はあのお寺さんは嫌だ」とおっしゃるご家族もいる。これは事実です。
浄土真宗の場合はまず起きない問題ですが、別の宗派ではとてもお付き合いできないという声が上がったりします。

考えてみてください。

昔は高いお布施でもお付き合いをできる収入があった。でも、今は年金生活です。

とてもじゃないがそんな付き合いはできない。だから「葬儀は良い機会だからお寺さんを変えてほしい」ということです。「もうお寺さんは要らない。無宗教でします」というご家族もおられます。

お金というのは必要なのですが、いやらしい話しになっていくものでもあります。お葬式のお布施は、我々が決めている話しではありません。そういった実情を率直にお示しし、ご遺族、お寺さん、ご遺体、会葬者の4者にとって良いお葬式ができるようにしたいと思う次第です。

 

Fin.

 

対談『より良い葬儀を営むために』

上村学社長と末本弘然正福寺住職
上村社長と末本弘然正福寺住職。別日に撮影。

末本氏 上村社長、ご講演有り難うございました。現場の実情も教えていただきました。

先ほどのお話で、我々お寺の方で葬儀をする時の想いと、葬儀を進行される葬儀社の立場、時に加納社長の想いを聞かせていただいた。共通することが多いと思いました。

それは、今、葬儀が簡素化されていること。直葬。ちょくそうと読んだり、じきそうと読んだりしますが。葬祭業の方が最初に「ちょくそう」と読んだんでしょうかね。

 

上村氏 いやあ、どうでしょう。中には「じきそう」と呼んでおられる方もおられます。どっちと言うわけではないでしょう。私は「ちょくそう」と読みます。

 

末本氏 ここでは「ちょくそう」としましょうか。直葬や家族葬が増えている。そのパーセンテージは大半が家族葬だという話でした。いろんなことがあります。隣近所の人に葬儀を知らせたくない。香典を辞退する。半分以上がそうなっているという話し。

我々、お寺の者から言うと「香典は辞退するべきものではない」ということは、寺の者ならば分かっている話だと思います。

葬儀というのは、考え方によりますが、「大きくしない」ということではなくて「派手にはしない」ということだろうと思います。「知らせてくれてありがとう」と言われるに違いない人々がいるにもかかわらず、家族葬なので知らせない。というのはいかがなものか。

故人や遺族だけでなく、葬儀社にとっても寺にとっても、知らせるべきものでしょう。

香典、そして葬儀の形態など、「なるだけ小さくしよう」という意図があるように見えます。また、中陰が省略されてくる暮らしというものに、疑問を提示されたのだと思います。このあたりのことは、我々も丁寧にお話しするべきでしょう。この話はお寺にとっても「こうあってほしい」という姿がありました。

現実はそれに反して簡略化されていく傾向だというわけです。お葬式における葬儀社の方針と言いますのは、ともすれば喪主の要求に流されていく傾向なのだろうというイメージがありますが、実際はそうではなく、お葬式の正しいあり方を思っておられるという姿勢がはっきりしました。

 

上村氏 そうです。それは口にもします。口に出しても説得できないのですが、でも、言います。

 

末本氏 寺の方もどうすれば、「こうあるべき」という葬儀の姿に向かえるのか。

 

上村氏 お葬式が簡略化されてきたのは、心の問題だけではなくて経済の影響が強いです。

まずは小さくなった原因は高齢化。少子化。これがあります。90歳で亡くなると、お葬式を出す側の方々は60歳を超えています。60歳を超えているということは自分は定年退職後で会社との縁が切れた人。

このような人が過去の勤め先に連絡をしたところで過去の人となっているので、会社の人がお葬式の手伝いをしてくれるわけでもなく、会葬に来るわけでもない。

そこに来て、自分は年金生活。そういう生活を守ろうとしたら、派手なお葬式はできないというわけです。

昭和40年代ですと、70歳代で亡くなる。今は亡くなる人の半分以上が80歳を超えておられます。

中には90歳、100歳を超える。お葬式を出す側が高齢なので、大きくしようがなくて、もう身内だけ集まってくれれば、それで良い。ということになる。

社会現象ですから防ぎようがありません。また、意識の流れも、無理してお金をかける必要はないという流れです。

 

末本氏 今、お金の問題が出ました。現代の方々は経済的に大変で苦労されている。そういうこともありますが、お金がかかるということは少しでも少ない費用でしたいという雰囲気はあります。

 

上村氏 それはひしひしと感じます。

 

末本氏 お金ではないのですということをどう伝えて行くのかが大事。寺院は、お葬式はお金がかかるというイメージを変えていくべきです。お金をかけずに対応することをきちんと示した方が良いのです。

 

上村氏 お布施ですから、いくら包んでも良いのですが、でも、出す側にすると若干でも出したい。正直に言いますが、生活保護を受けておられる方はお葬式にお寺さんを呼ぶ余裕はまったくありません。お布施の1万円は出て来ないのです。加納会館の場合は、生活保護を受けておられる方のお葬式の場合、会館使用料は頂いていません。でも、頂かないと赤字になります。赤字になるんですが、やらないといけない。葬儀会社でも赤字なのでお布施もないということが、私は良く分かっています。

葬儀は要らない
写真:島田裕巳さん著 『葬式は、要らない』。葬儀を経済的な側面から考えた書籍。
末本氏 お布施が必要経費の中に入れられていて、その中でも最後の項目のような感覚になっているでしょう。『葬式は要らない』に書かれていた全国の葬儀の平均は231万円程度だったと思いますが、去年の日経新聞のデータでは200万円。それは喪主にとってはモノすごい金額です。この金額はお寺へのお布施も含んでの平均金額。大別すると葬儀一式、実費、お布施。の3項目の合計金額です。 寺の感覚で言えば、実際のところ、お寺で葬儀をすればこれの10分の1で済みます。 この平均は、浄土真宗ではなく他の宗派での戒名問題が含まれているのだろうと思います。

上村氏 東京のデータは、お寺さんが50万円程度。おひとりだけ来られて50万円のお布施って、大きいでしょう。実際、大阪で皆さんはそんなに受け取られたことはないと思います。東京の場合は戒名料金というのがあって、浄土真宗の院号は別ですが、他の宗派ではいろんな戒名料金があります。私どもがお布施を言う場合に、門徒さんの場合は釈●●の場合、お礼は必要ないですよと言います。 お寺に関しては、大阪は安い。飲食の費用、粗供養の品や霊きゅう車、マイクロバスなどの経費も違います。大阪北部は火葬場まで近いのでそう問題にはならないのですが、東京ですとマイクロバスでも5万円程度するでしょう。そういう経費が積み重なって、東京は高くなります。

 

末本氏 そういう風潮を感じ取れば感じ取るほど、「家族葬にしてください」という一言が出るようになるわけです。だんだん、お金の問題でもってして葬儀を語るようになる。

これは裏返せば「お金があればもっと人を呼びたい。会葬者が増えれば喜んでくれる」ということになる。

1人でも多くの人に来てほしい、そして送ってほしいという願いが背景にはあるのだということが見えてきます。その願いを阻害するのが、現代社会ではお金なんだなということです。現実問題としてそれがあると思います。
もうひとつ、我々にとっては、「死をどう受け止めるか」というのが、葬儀をする根拠です。

このことが伝わっていないのだろうと思います。先ほどの講演で指摘いただいた「通夜の席での法話」というのは、もう実践するべきでしょう。

死の悲しみ、喪失感ということからどうやって死を受け止め、生かしていけるか。後に残った方々が、家人の死を自分のいのちの営みに転換されていくことが大事。僧侶にとってはこの部分が必要ですが、でも葬儀の場に反映されているかというと疑問もあります。

 

上村氏 ご遺族にとっては目の前の葬儀として送りだしてお骨にすることが最優先です。そののちに法事のたびに癒されていくという実体験が必要なのです。

 

末本氏 癒されていく過程というのは、グリーフケアのことで言いますと、最初にショックがきます。思ってもみなかったのに、死んでいくというショックがあり、喪失感があり、そして日常では閉じ込もり傾向があり、そこから回復を図るということが言われますが、そういう点が葬儀社のサイトではグリーフケアの説明があったりします。

葬儀社の仕事はそのことが念頭にあるということです。

 

上村氏 遺族は、「目の前のお葬式をちゃんとする。故人をちゃんと送る」という行為に、全神経を集中されています。その後のことは、7日ごとの法要で親族が集まり、いろんな話題を出しながらだんだんと癒されていきます。そこに、法話があればより効果的だと思うのです。

エンディングノート、おくりびと、納棺夫日記
 

最近話題になった、人の死を取り扱った映画や書籍。

「生きている人」がその「終焉」として死を迎えることと、

「生きている人同士」の絆が「美談」となることに対して、例えば『納棺夫日記』の青木新門さんは、「私は『おくりびと』の原作者ではない」と、拒否した。

 

末本氏 そういう点も、我々が目指しているところと共通していると思います。

『エンディングノート』という映画があって、DVDが発売されたので私も観ました。これはお父さんが人生の最後をキレイに終えて行くために、遺言だけでなく様々なことを自分で整理して心残りなく死んでいく姿を映画化したものです。考え方とすると、死生観、生きることと死ぬことの連続性のあるものだと捉えるのではなくて、生きていることが主となり、終焉をどう迎えるかという意識。生きていることの完結が死だという発想。

大ヒットした映画の『おくりびと』は、原作者の青木新門さんは、「自分はこの映画の原作者ではないから名前を外してくれ」とおっしゃった。

映画の『おくりびと』は、尊厳を持って遺体をキレイに扱うが、青木さんが問題にしたのはそこだけではなく、「いのちはどこに行くのか」という本質の話。だから「ウジが光って見えた」という名文が書かれたのですが、でも、映画化されるにあたって、主題が「いのちの問題」から「生きている人の関係」に置き換わったので、青木さんは、もう自分の想いではないから原作者ではないと拒否された。

普遍的ないのちの価値に目覚めて行くからこそ、死の先の希望に至る。そういうところに葬儀の意味を見いだしていくのが、宗教儀式としての葬儀。

ただ、今、葬儀は宗教儀礼なのだという意味を受け止めるだけの生活がないということを痛切に感じます。

 

上村氏 キリスト教の場合、今のようなお話を会葬者に話します。仏式の場合、その時間もないのでまず話さない。だから、お通夜の席で話してほしいのです。キリスト教の場合は、お通夜の席でもお葬式でも、キチンと丁寧な法話をされていますよ。受け取る側は、真面目に心をこめて聞く人もあれば、眠る人もいます。でも、お葬式はそういうお話をする最適な場。お寺さんはこの場を生かすべきなのです。

私の親族に浄土真宗のお寺さんがあるのですが、この住職はお葬式で法話をされます。そうすると集まっている人もそれを聞く。普段思わないこともそこで再認識させられると思います。

 

末本氏 実はそのお話しは、法話という形態の話だけでなく、お経、荘厳、そのものも死生観がなかったら成立しないものです。我々で言えば、阿弥陀如来の働きが前提になった荘厳です。葬儀の場で、それを短時間に的確に伝えるのかは、これは僧侶の大きな課題だろうと思います。

本当は、門徒さんならば、「死んだら阿弥陀さんの働きによってお浄土に生まれるんだって」という最も簡潔化された形での信心、いのちのつながりの継承は、それぞれの家庭で、親から子へ子から孫へと伝わったのですが、でも、今はそれは心もとない。

「死んだら天国に行く」という門徒さんもおられる。

荘厳のひとつひとつ、おつとめのひとつひとつが、死んで浄土に生まれることを伝えんがための事柄なのだということを、明確に伝える。それは我々僧侶の役目。こういうことを実現していくために、またどうぞ、お力をお貸しください。

――質疑応答――

参加者Aさん お通夜と葬儀とで、参ってくる数はどちらが多いのですか?

 

上村明さん 圧倒的に、お通夜の方が多いです。

 

参加者Aさん お通夜でお説教をしてほしいということですが、お通夜に来られるのは仕事関係の方々多かったりします。そういう方が、焼香が終わって雑談をしている環境の中で、生死(しょうじ)の話をするのは、私は無理じゃないかと思う。お骨上げが終わり身内だけが残り、やっと、ほっとしたところだと、法話もできるかと思います。

 

上村社長 これも以前ですと、お通夜は少なかったですね。隣近所だけが集まる形でお葬式に人が集中するということでした。でも、これもだんだんと東京ナイズされまして、東京の場合はお通夜に100人来たらお葬式は10人来るか来ないかという状況。極端ですが、そういう感じでお通夜に集中する。焼香をして帰る。そのタイミングでどこで法話をするべきかと言うのは私も分かりにくいのですが、そう言えば会葬者のマナーも悪いですね。

 

末本氏 通夜が葬儀になってしまって「一日葬」と呼ばれたりする。

 

上村明さん 圧倒的にお通夜に来られる方が多く、お焼香が終わったら帰る人も多い。その時に法話をしていただいても人数が残っていない。という事態にもなるかと思います。そこでですが、お経をあげる前に法話をしていただくことが良いと思っています。私が司会をしはじめた頃の話ですが、導師を務めていただいたお寺さんが、「今日はお経の前に法話をする」とおっしゃいました。一般的にはお経が終わって、焼香が終わって、それからお話しをされる。でも、静かなうちに法話をしてくださる方が良いと思います。

 

末本氏 葬儀は何をするのかという話しは、おつとめ前に話しても良いと思います。それは勤行が実は一番大事だからです。その意味が伝わっていないので、おつとめすることの中にどれだけ仏さまの心が詰まっているのかを説明するということは、事前に話して良いだろうと思いました。

 

参加者Bさん 加納さん、自宅で葬儀を出す家庭ってまだありますか?

 

上村社長 あります。と言っても、昔は庭などで会葬者を迎えるための設営をしましたが、今は家の中で身内だけでやる。やはり、家でやりたいという気持ちは誰でもあります。私も自宅でやりました。ご近所には迷惑をかけたかもしれないのですが、でも家から送りだしたかった。そういう気持ちの方は多いです。でも事情が許さずに会館を借りるんですね。

 

末本氏 これは今の地域社会の問題。地域が成り立ってない。

 

上村社長 「地域力」というものが弱くなっているのです。家でお葬式をする。昔なら会葬のテントが通りに並んでも文句は出なかったんです。でも、今は「警察の許可を取ったのか」などと言われる。私が「いえいえ、ご近所に口頭で許可を得たんです」と答えると「それはいかん。邪魔だ」と言われる。長年近所に住んでいるのにそんな発想をする。近所の方も手伝いに来ない。いつからそんな情けない社会になったんだろうと思うのです。

 

Fin

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